はじめに
韓国語の勉強を続けていると、「同じ意味に見えるのに、どう使い分ければいいのだろう」と悩む文法によく出会います。
私にとって、その一つが –(으)ㄴ/는 것 같다 と –나 보다 でした。
韓国語を勉強し始めた頃、私は「~みたい」と言いたいときには –(으)ㄴ/는 것 같다 を使うものだと思っていました。
実際、最初に覚えた「~みたい」という表現が –(으)ㄴ/는 것 같다 だったからです。
そのため、日記を書いたり例文を作ったりするときも、「~みたい」と思ったら自然と –(으)ㄴ/는 것 같다 を使っていました。
その後、文法を勉強する中で –나 보다 という表現を知りました。
もちろん、「これも『~みたい』という意味です」と説明を読みました。しかし当時の私には、
「どちらも『みたい』なら何が違うの?」
という疑問しか浮かびませんでした。
文法としては知っていても、実際にどんな場面で使い分けるのかは全く分からなかったのです。
それでもしばらくは、その疑問を深く考えることはありませんでした。
そんなある日、好きな曲の歌詞に 「있나 봐」 という表現が出てきたことで、「また –나 보다 だ」と気になるようになりました。
今振り返ると、この出来事が –(으)ㄴ/는 것 같다 と –나 보다 の違いを本気で考え始めるきっかけだったように思います。
この記事では、私が「どちらも同じ『~みたい』に見えた」と感じていた頃のことを振り返りながら、少しずつ違いが見えてきた過程を書いてみたいと思います。
私の中では「みたい=–(으)ㄴ/는 것 같다」だった
韓国語を勉強し始めた頃の私は、「~みたい」と言いたいときには –(으)ㄴ/는 것 같다 を使うものだと思っていました。
理由はとてもシンプルです。
私が最初に覚えた「~みたい」の表現が –(으)ㄴ/는 것 같다 だったからです。
教科書や学習動画では、
비가 오는 것 같아요.
(雨が降っているみたいです)
사람이 많은 것 같아요.
(人が多いみたいです)
맛있는 것 같아요.
(おいしいみたいです)
のような例文が紹介されていました。
私はそれを見て、
「なるほど、『~みたい』は –(으)ㄴ/는 것 같다 を使えばいいんだな」
と理解しました。
そのため、日記を書いたり例文を作ったりするときも、「~みたい」と思ったら自然に –(으)ㄴ/는 것 같다 を使っていました。
当時は、それだけで十分だと思っていました。
「~みたい」と言いたい場面では困ることもなく、自分の中では自然に使えているつもりだったのです。
その頃は –나 보다 という表現の存在すら知りませんでした。
だから、「みたい」を表す文法が一つだけだと思っていても、不思議ではありません。
今振り返ると、この頃の私は、日本語の「みたい」をそのまま –(으)ㄴ/는 것 같다 に置き換えて考えていました。
そして、その考え方が少しずつ変わり始めたのは、後になって –나 보다 を知ってからでした。
–나 보다 を知ったけど違いが分からなかった
韓国語の勉強を続ける中で、私は –나 보다 という表現を知りました。
文法の説明には、「~みたいだ」「~のようだ」と書かれています。
それを読んだとき、私が最初に思ったのは、
「これも『みたい』なんだ」
ということでした。
つまり、その時点では –(으)ㄴ/는 것 같다 と –나 보다 の違いがほとんど分かっていなかったのです。
もちろん、新しい文法として覚えようとはしました。
しかし、実際に例文を見ても、
「結局どちらも『みたい』では?」
という印象しかありませんでした。
例えば、
비가 오는 것 같아요.
と
비가 오나 봐요.
どちらも日本語にすると「雨が降っているみたいです」と訳せます。
それなら、何が違うのでしょうか。
私は、その違いが全く分かりませんでした。
今思えば、この頃の私は、日本語で同じ「~みたい」と訳せることだけを見て文法を理解しようとしていました。そのため、「どちらを使っても同じではないか」と考えていたのです。
新しく –나 보다 を知っても、実際に使ってみようとはあまり思いませんでした。
私の頭の中では、
「『みたい』と言いたいなら –(으)ㄴ/는 것 같다 を使えばいい」
という考え方が、すでに出来上がっていたからです。
今振り返ると、この頃の私は –나 보다 を「知っていた」だけで、まだ「使える」状態ではありませんでした。
そして、その見方が少しずつ変わり始めたのは、好きな曲の歌詞の中で –나 보다 に気づいたからだったのです。
違いを調べても最初は分からなかった
–나 보다 が気になるようになった私は、–(으)ㄴ/는 것 같다 との違いを調べてみることにしました。
すると、教材や解説サイトには、
–(으)ㄴ/는 것 같다 は「自分の考えや推測」
–나 보다 は「見たり聞いたりしたことから判断するときに使う」
といった説明が書かれていました。
今読むと、とても分かりやすい説明です。
しかし当時の私には、その違いがうまく理解できませんでした。
例えば、
비가 오는 것 같아요.
(雨が降っているみたいです)
と、
비가 오나 봐요.
(雨が降っているみたいです)
という二つの文を見ても、日本語にするとどちらも同じ意味に思えます。
「自分で考えた推測」と「見て判断した推測」と説明されても、
「結局どちらも『みたい』では?」
という感覚が消えませんでした。
むしろ、調べれば調べるほど頭の中が混乱していたように思います。
文法の説明に使われている言葉は分かっても、それを実際の会話でどう使い分ければよいのかが見えてこなかったのです。
今振り返ると、文法の説明を読むだけではなく、実際に使われている場面に触れることが必要だったのだと思います。
そのことを後になって実感するきっかけになったのが、何気なく聴いていた好きな曲の歌詞でした。
そこに出てきた「있나 봐」という表現を見て、私の中で止まっていた文法が再び動き始めたのです。
SHINeeの歌詞で気になり始めた
–나 보다 が気になり始めた頃、私はよくSHINeeの曲を聴いていました。
その中でも印象に残っているのが、「방백(Aside)」という曲です。
歌詞には「있나 봐」という表現が出てきます。
当時の私は、その 「있나 봐」という表現のところで、
「 –나 보다 だ」
と思ったのを覚えています。
このフレーズの意味を調べてみると、
「心は今でも君に向かっているみたい」
というような内容だと分かりました。
でも、私の頭の中には、
「『みたい』なら –(으)ㄴ/는 것 같다 ではないの?」
という疑問が残っていました。
歌詞を見ても、
「どうしてここでは 있는 것 같아 ではなく 있나 봐 なのだろう」
と思っていたのです。
それまで –나 보다 は、教科書の例文に出てくる文法の一つでした。
しかし、好きな曲を聴きながら何度も歌詞を見ているうちに、不思議とその表現が気になるようになりました。
最初は意味を調べるだけだったのに、
「どうしてこの表現を使っているのだろう」
と考えるようになっていました。
そのうち、文法書の説明だけでは分からなかった「–나 보다 が選ばれる理由」そのものが気になるようになりました。
後になって少し分かってきた
–(으)ㄴ/는 것 같다 と –나 보다 の違いは、文法書を一度読んだから理解できたわけではありませんでした。
歌詞を見たり、ドラマを見たり、例文を何度も読み返したりする中で、少しずつ感覚が整理されていったのです。
今振り返ると、私が一番勘違いしていたのは、
「日本語で『~みたい』と訳せるなら同じ」
と思っていたことだったように思います。
実際には、どちらも「~みたい」と訳されますが、文の中で果たす役割には少し違いがありました。
私なりの理解ですが、–(으)ㄴ/는 것 같다 は、自分の考えや感覚を含めて、「~のように思う」と推測をやわらかく伝える表現です。
一方で、–나 보다 は、目の前の様子や聞いたことなどをきっかけに、「どうやら~みたいだ」と気づいたり判断したりするときによく使われる表現なのだと感じるようになりました。
ただし、実際には使える場面が重なることもあり、いつもはっきり分けられるわけではありません。
もちろん、最初からそんなふうに理解できたわけではありません。
好きな曲の歌詞に出てきた 있나 봐 が気になったり、例文を何度も見比べたりしながら、「なるほど、こういう違いだったのか」と少しずつ納得していったのです。
今でも迷うことはあります。
それでも、以前のように「どちらも同じ『みたい』だから違いが分からない」と感じることは少なくなりました。
あの頃は、–나 보다 はただの「もう一つの『みたい』」にしか見えていませんでした。
でも今では、韓国語らしい細かなニュアンスを表す、大切な表現の一つだと感じています。
まとめ
韓国語を勉強し始めた頃の私は、「~みたい」と言いたいときは –(으)ㄴ/는 것 같다 を使うものだと思っていました。
その後、–나 보다 を知りましたが、どちらも日本語では「~みたい」と訳されるため、何が違うのか全く分かりませんでした。
文法書で説明を読んでも、例文を見ても、「結局どちらも同じでは?」という気持ちが消えなかったのを覚えています。
違いを意識するきっかけになったのは、SHINeeの「방백(Aside)」の歌詞に出てきた 「있나 봐」 でした。
「どうしてここでは –(으)ㄴ/는 것 같다 ではなく –나 보다 が使われているのだろう」
そう考えるようになってから、少しずつ –나 보다 を意識するようになりました。
今振り返ると、理解できるようになったのは、文法を暗記したからではありません。
歌詞やドラマ、例文など、実際に使われている韓国語に何度も触れながら、「この表現にはこういうニュアンスがあるのかもしれない」と少しずつ感覚が育っていったからだと思います。
今は違いが分からなくても、気になった表現をそのままにせず、何度も出会いながら少しずつ考えていくことで、ある日突然つながることがあります。
私にとっての 있나 봐 がそうだったように、これからも一つずつ理解を深めていきたいと思います。
「것 같다」の形そのもので混乱したときのことは、こちらの記事で詳しくまとめています。

