はじめに
韓国語の勉強を続けていると、一つひとつの単語の意味は分かるのに、組み合わさると急に意味が分からなくなる表現に出会うことがあります。
私にとって、その一つが 장을 보고 왔다 でした。
ある日、韓国語で日記を書いていたとき、
「少し遠いお店へ行って、ポイントカードを作って、買い物をしてきました」
という内容を書きたくなりました。
この文章の「買い物をしてきました」を韓国語でどう書けばよいのか分からず、
私は最初、
「쇼핑에 갔다(買い物に行ってきた)」
「쇼핑을 했다(ショッピングをした)」
かなと思いました。
すると、
「장을 보고 왔다」
という表現を教えていただきました。
それまでの私は、보다 は「見る」という意味だと覚えていたので、
「장을 보고 왔다」が「買い物をしてきた」という意味になることが、結びつきませんでした。
今振り返ると、私は一つひとつの単語を日本語に置き換えて理解しようとしていたのだと思います。
この記事では、私が 보다=見る という考えにとらわれていたために、「장을 보고 왔다」の意味がすぐには理解できなかったことを振り返りながら、韓国語では言葉の組み合わせによって意味が変わることがある、という気づきについて書いてみたいと思います。
最初は「보다」は「見る」だと思っていた
韓国語を勉強し始めた頃の私は、보다 は「見る」という意味の動詞だと覚えていました。
教科書でも、
영화를 보다
(映画を見る)
TV를 보다
(テレビを見る)
のような例文がよく出てきます。
そのため、私は「보다=見る」と理解し、それ以上深く考えることはありませんでした。
実際に韓国語で日記を書くようになってからも、その考えは変わりませんでした。
「見る」と言いたいときは 보다 を使う。
それが私の中では当たり前になっていたのです。
そんなある日、いつも行っていたお店が閉店してしまったため、少し遠くのお店へ買い物に行きました。
そこでポイントカードを作り、買い物も済ませて帰ってきたので、その日の出来事を韓国語で日記に書こうと思いました。
私は「ポイントカードを作りました」までは何とか書けそうだと思いましたが、「買い物をしてきました」は韓国語でどう表現すればよいのか分かりませんでした。
そこで質問してみると、
장을 보고 왔다
という表現を教えていただいたのです。
私はその文を見た瞬間、
「えっ? これで買い物をしてきたって言うの?」
と驚きました。
それまでの私にとって、보다 は「見る」という意味しか持っていなかったからです。
でも同時に、韓国語らしい表現で面白いなとも感じました。
「장을 보고 왔다」を知って「あれ?」と思った
私は最初、
장을 보고 왔다
「市場を見てきた」
と直訳が頭に浮かびました。
(시장(市場)という単語を知っていたので、「장」は市場のことなのかなと思っていました。)
영화를 보고 왔다
(映画を見てきた)
꽃을 보고 왔다
(花を見てきた)
のような表現と同じように考えてしまったのです。
でも、説明を読んでいくうちに、장을 보다 は「買い物をする」という意味で使われる、一つのまとまった表現だということを知りました。
つまり、
장을 보다
=買い物をする
なので、
장을 보고 왔다
は、
「買い物をしてきた」
という意味になるのです。
私はそれを知って、
「そういうことだったのか」
と思いました。
今振り返ると、この頃の私は、一つひとつの単語を日本語に置き換えて理解しようとしていました。
だからこそ、「보다=見る」という考えにとらわれてしまい、「장을 보다」という一つの表現として見ることができていなかったのだと思います。
「보다」は「見る」だけではなかった
「장을 보다」が「買い物をする」という意味だと知った私は、
「보다 には『見る』以外の使い方もあるんだ」
ということを初めて意識するようになりました。
そこで教えていただいた説明を読んでいくうちに、보다 は目的語によって意味が変わることがあると分かりました。
例えば、
| 韓国語 | 実際の意味 | 直訳すると |
|---|---|---|
| 영화를 보다 | 映画を見る | 映画を見る |
| TV를 보다 | テレビを見る | テレビを見る |
| 사람을 보다 | 人に会う | 人を見る |
| 장을 보다 | 買い物をする | 市場を見る |
| 의사를 보다 | 診察を受ける | 医者を見る |
私はこの表を見て、
「보다 を『見る』とだけ覚えていたから混乱したんだ」
とようやく気づきました。
もちろん、보다 の基本の意味は「見る」です。
でも、韓国語では目的語との組み合わせによって、一つのまとまった意味を持つ表現になることも少なくありません。
今回の 장을 보다 も、その一つでした。
私は最初、「장」と「보다」を別々に訳そうとしていました。
でも、本当に理解するためには、
「장을 보다 で一つの表現」
として覚えた方が自然だったのです。
この出来事を通して私は、
「韓国語は、一つひとつの単語だけを見ていても理解できないことがある」
ということを実感しました。
それ以来、新しい表現に出会ったときは、
「単語を一つずつ訳す前に、まずは一つの表現として使われているのかもしれない」
という視点でも見るようになったのです。
日記を書き続けて少しずつ分かってきた
「장을 보고 왔다」の意味は、一度説明を聞いただけですぐに身についたわけではありませんでした。
でも、韓国語で日記を書き続け、そのたびに新しい表現に出会う中で、少しずつ韓国語らしい言い回しが見えてきたのです。
以前の私は、보다 を見ると、まず「見る」という意味で考えていました。
だから、장을 보다 や 장을 보고 왔다 のような表現に出会うたびに、
「どうして『見る』じゃないんだろう?」
と立ち止まっていたのです。
でも、今回の出来事をきっかけに、
「韓国語には、単語を一つずつ訳すだけでは意味が分からない表現もあるんだ」
ということを少しずつ実感するようになりました。
今回の 장을 보고 왔다 も、その一つでした。
最初は、「買い物を見てきた」というような意味なのかな、と考えてしまいました。
でも、本当に伝えられていたのは、
「買い物をしてきた」
という、一つのまとまった意味だったのです。
そう考えられるようになってからは、新しい表現に出会っても、
「まずは一つの表現として見てみよう」
と思えるようになりました。
もちろん、今でも初めて見る言い回しに戸惑うことはあります。
それでも、日記を書き続ける中で一つずつ表現を覚えていくことが、教科書だけでは気づけなかった韓国語らしい感覚を身につけることにつながっているように感じています。
私がこの言葉から学んだこと
韓国語を勉強していた頃の私は、보다 は「見る」という意味の動詞だと思っていました。
だから、장을 보고 왔다 を初めて見たときも、「市場を見てきた」という意味なのだと思ってしまったのです。
ところが、実際には 장을 보다 は「買い物をする」という一つのまとまった表現で、장을 보고 왔다 は「買い物をしてきた」という自然な言い方でした。
最初は、
「보다 は『見る』なのに、どうして?」
と不思議でした。
でも、この出来事をきっかけに、韓国語には単語を一つずつ日本語に置き換えるだけでは意味が分からない表現があることに気づきました。
大切なのは、それぞれの単語の意味だけを見ることではなく、
「韓国語では、この組み合わせでどんな意味になるのだろう?」
と考えることだったのです。
今回の 장을 보고 왔다 を通して、私は「一つの単語には一つの意味がある」と考えるだけでは、韓国語を十分に理解できないことを学びました。
それ以来、新しい表現に出会ったときは、単語を一つずつ訳すのではなく、
「これは一つの表現として使われているのかな?」
という視点でも見るようにしています。
そうすると、最初は不思議に思っていた表現も、少しずつ自然に感じられるようになってきました。
これからも、また思いがけない表現に出会って「あれ?」と立ち止まることがあると思います。
それでも今は、その疑問を一つずつ整理していくことが、韓国語を日本語に当てはめて理解するのではなく、韓国語らしく理解することにつながっているのだと感じています。

